*歌いながら*~続・乳がん闘病記~

2011年6月10日に、乳がんの告知を受けました。このブログは、乳がんの手術を受ける直前から受けた時、その後の闘病記です。 前ブログ→http://singinginthesun.seesaa.net/

斉木 緋冴。の、続・乳がん闘病記へようこそ。
seesaaブログから、引っ越してきました。

前ブログ→http://singinginthesun.seesaa.net/

情報としては、大したことはないと思いますが、
毎日感じている「何か」を、綴って行けたらと思います。

不定期更新ですので、それでも良かったら、お付き合い下さいませ。

お久しぶりです。
度々、記事は書かないけど……、と、思いながら覗いてみることがあるのですが、その度に訪問して下さっている方がいること、本当にありがとうございます。
大したことは書いていないブログですけれども、何かの役に立つことがありましたら、幸いです。

さて。
1月11日に、術後丸6年が経過しました。
つまり、術後7年目に突入しました。
昨日、浜松オンコロジーセンターでマンモグラフィを受けて、晴れて「乳がん7年生」に、進級することが出来ました。
家族や友人、医療従事者の皆さまが、真心を持って支えてくれたことが、6年もの間の私の最大の「宝物」です。

11日は、私の祖父のお命日だったので、心の中で手を合わせつつ、「何故私は、祖父のお命日に手術を受けたのか?」ということを、考えていました。
そして、思い当たった「答え」がとても素敵なことだったので、両親に報告しました。
「お命日に当てることで、普段は忘れていても、必ずこの日に『生きていること』に感謝出来るように、祖父が導いてくれた」。
私なりの「答え」です。
ありがたいありがたい、「答え」です……。

祖父は、私のことをとても可愛がってくれていました。
同居の孫だったからではなく(下には妹もいますし)、本当に5人の孫の中で、1番可愛がってもらっていました。
祖父自身が、「おむつまで変えたのは、緋冴。だけだ」と言っていたと、祖父が亡くなった後に母から聞かされて、「もっと早くに知っていたら」と、悔やまれました。
だから、夢に祖父が出てくる度に、心の中で手を合わせ、感謝の気持ちを送っていたのですが、私の命を永らえてくれたのが、「祖父の導き」だったとしたら、……そう考えただけで、もう、なんか、ダメでした。

私、祖父が大好きだったのに、祖父のことを大切に出来ていませんでした。
祖父のために、専門学校卒業後に東京から戻って来て、でも、祖父のためには何も出来てなかったと思います。
祖父の意識があった最後の夕方、やせ細った祖父の背中をマッサージしていて、「もうお家に帰らせてあげたい」と思っていた、そのもう少し後に、意識がなくなったまま2日後の未明に、逝ってしまいました。
そのマッサージもちょっとおざなりだったこと、今でもあの背中が「痛いんだろうなぁ」って思っていた自分の気持ちとか、思い出します。
入院したまま、年末年始もお家に帰って来ることが出来なかった祖父は、お家に帰ることなく逝ってしまい、やっとお家に帰って来ても、自分のお部屋ではなかった(ベッドを愛用していたので、和室に布団を敷いて寝かせたのは、祖父らしくなかったと思います)ので、寂しい思いをさせてしまったんだろうなぁとか……。
お通夜の夜に、心だけお家に帰ってきてドアをノックしてくれたこととか、同じ夜に私と妹は当時同じ部屋だったので、思い出話をしていたら、窓の外をすっと影が通って、やっぱりドアをノックしてくれたことを思い出しました。
(この手のエピソードは山ほどありますけど、割愛します)

天に旅立った祖父は天から私たちを見守ってくれていて、そして、2012年1月11日に、「ほら、この日なら大丈夫だ」と、私を導いてくれたんだと思います。
あれから20年近く経ちましたけど、今も変わらず「愛されている」と思ったら、涙があふれて止まらなくなりました。
そして、「自分などどうでもいい」と思っていた私に、自分を大切にすることで周りの人をもっと大切に出来るということを教えてくれて、完璧主義者の私に「大丈夫、なんとかなる」と教えてくれた祖父は、間違っていないんだなぁ……、と。

1月11日は、祖父のお命日で、私の「もうひとつの誕生日」です。
……とても、しあわせです。

こんにちは、皆様。

「来るだろうな」と思われていた日が、ついに来てしまったのか、
「来ないだろうな」と思われていた日が、ついに来てしまったのか。

フリーアナウンサーで、歌舞伎役者市川海老蔵さんの妻、小林麻央さんが、亡くなられました。
こう……、分かるんですよね、周りの人がどう感じているのか、というのが。
「触れない方が良いのかな、それとも、触れた方が良いのかな……」というような、
逡巡した感情を受け取ってしまいます。

実際、私も何故だか分かりませんが、訃報を見た後から、左胸のリンパが痛くて堪りません。
じわじわチクチク、まるでそこに「傷があること忘れんなよ! けっ!」って、
言われているかのような、ちゃぶ台ひっくり返したくなるような勢いで、痛みを感じます。

***

「人生は一度きり」。

どうして、この一言は「ふつうのひと」の心の中に、根を張ってくれないのでしょう。

がんサバイバーは、毎日この言葉を有り難く思って、生きているものだと思っています。

私ももれなく、有り難く思っています。

そして、自戒を込めた意味でも、この言葉を使います。

「人生は一度きり」だから、一生懸命、後悔しないように生きよう。

生きるのは怖いでしょう。

空しいでしょう。

悲しいでしょう。

辛いでしょう。

でも、死ぬことよりもずーーーーーっとマシなのです。

何故なら、「生きているから」。

病気になったから、できないことなどない。

病気になったから、したらいけないことなどない。

何故なら、「生きているから」。

……「生きているから」。

***

小さいお子さんを二人も残して逝ってしまった、麻央さんの心中いかばかりかと思いますが、
でも、彼女は「一生懸命生きた」と思います。

とても、真剣に、ひたむきに。

赤の他人が言えることではないのですが、彼女は、「花丸の人生」を送ったと思います。

きっと、ご家族から特大の「花丸」を贈られたと、思います。

***

小林麻央さん、闘病、大変お疲れさまでした。

こんにちは、お久しぶりです。
タイトル通りのことを、ご報告したいと思いまして。
既に、終わってから2か月が経とうとしておりますけども!笑

夫が休みを取ってくれたので、浜松時代に子育て支援させてもらった、
Sさんご一家のお宅へ、夫を紹介しにお邪魔しました。
2か月の終わりくらいから、支援させてもらっていたNちゃんも、
いつの間にかすーっかり「おねえさん」の顔になっていて、
弟のTくんと♪仲良くケンカしな♪状態で……。
ああ、月日が経つのって、本当に早いです。汗

夫は、Sさんパパのことを「イクメンですごい!」と言っていて、
Sさんご夫婦は、夫のことを「すごく出来た旦那さま」と言っていて、
……うん、まあ、そうなのかな……?笑

その日は、弁天島の鳥居が見えるホテルに泊まって、夕陽を楽しみました。
翌日、浜松オンコロジーセンターに向かって、最後のリュープリン。
「これが身体から消える頃には、また急激な変化があるのかな……」と、
少々不安になったりもしましたけど。
でも、無事、「5年間のホルモン治療」が終了して、アナストロゾールも、
関節の痛みのために飲んでいたお薬(名前忘れた)もなくなったので、
……「自由」とは違うんですけど、何か、そんな感じです。

いつだって、胸にキズがあることを確認するたびに、[ふつうのひと」と、
ちょっと違うんだということを自覚しますし、そのたびにしょんぼりします。
でも、結局は前を向かないといけないことですし、向かなければ、
前に進めなければ、待っているのは「死」でしかないと思っているんです。

この次の5年、「元気な病人」でいたい。
その先の5年、「元気な病人」でいたい。
その次の先も、そのもっと先も、「元気な病人」でいたい。
そのために、基本は前を向いていようと思います。
時々は躓いて、転んで、でも一回転してまた立ち上がって。
後ろを向いたって、立ち止まったっていいんです。

生きてるから。

2011年6月10日、私は左乳がんを告知されました。
2012年1月11日、左乳がんを部分切除しました。
抗がん剤治療も、ホルモン治療も、放射線治療も、出来ることはやりました。

生きたいから。

我が家に迎えた、ちっちゃくておっきな「セキセイインコ」という名の家族を、
しあわせにしてあげることも、生きる目的です。
我が家の大黒柱の夫と、ずっと並んで手をつないで歩いて行くことも。

いつか「最期の日」が来るのですから、その日が来るまで楽しく、
明るく、歌いながら、スキップしながら、進んで行ければ最高です。

次の5年まで、まだまだ先は長いですけど。
このブログも、時々しか更新できなくなりましたけど。

良かったら、一緒に「歌いながら」、生きていきましょう!
どうぞよろしくお願いします!<(_ _)> 

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