お久しぶりです。
度々、記事は書かないけど……、と、思いながら覗いてみることがあるのですが、その度に訪問して下さっている方がいること、本当にありがとうございます。
大したことは書いていないブログですけれども、何かの役に立つことがありましたら、幸いです。

さて。
1月11日に、術後丸6年が経過しました。
つまり、術後7年目に突入しました。
昨日、浜松オンコロジーセンターでマンモグラフィを受けて、晴れて「乳がん7年生」に、進級することが出来ました。
家族や友人、医療従事者の皆さまが、真心を持って支えてくれたことが、6年もの間の私の最大の「宝物」です。

11日は、私の祖父のお命日だったので、心の中で手を合わせつつ、「何故私は、祖父のお命日に手術を受けたのか?」ということを、考えていました。
そして、思い当たった「答え」がとても素敵なことだったので、両親に報告しました。
「お命日に当てることで、普段は忘れていても、必ずこの日に『生きていること』に感謝出来るように、祖父が導いてくれた」。
私なりの「答え」です。
ありがたいありがたい、「答え」です……。

祖父は、私のことをとても可愛がってくれていました。
同居の孫だったからではなく(下には妹もいますし)、本当に5人の孫の中で、1番可愛がってもらっていました。
祖父自身が、「おむつまで変えたのは、緋冴。だけだ」と言っていたと、祖父が亡くなった後に母から聞かされて、「もっと早くに知っていたら」と、悔やまれました。
だから、夢に祖父が出てくる度に、心の中で手を合わせ、感謝の気持ちを送っていたのですが、私の命を永らえてくれたのが、「祖父の導き」だったとしたら、……そう考えただけで、もう、なんか、ダメでした。

私、祖父が大好きだったのに、祖父のことを大切に出来ていませんでした。
祖父のために、専門学校卒業後に東京から戻って来て、でも、祖父のためには何も出来てなかったと思います。
祖父の意識があった最後の夕方、やせ細った祖父の背中をマッサージしていて、「もうお家に帰らせてあげたい」と思っていた、そのもう少し後に、意識がなくなったまま2日後の未明に、逝ってしまいました。
そのマッサージもちょっとおざなりだったこと、今でもあの背中が「痛いんだろうなぁ」って思っていた自分の気持ちとか、思い出します。
入院したまま、年末年始もお家に帰って来ることが出来なかった祖父は、お家に帰ることなく逝ってしまい、やっとお家に帰って来ても、自分のお部屋ではなかった(ベッドを愛用していたので、和室に布団を敷いて寝かせたのは、祖父らしくなかったと思います)ので、寂しい思いをさせてしまったんだろうなぁとか……。
お通夜の夜に、心だけお家に帰ってきてドアをノックしてくれたこととか、同じ夜に私と妹は当時同じ部屋だったので、思い出話をしていたら、窓の外をすっと影が通って、やっぱりドアをノックしてくれたことを思い出しました。
(この手のエピソードは山ほどありますけど、割愛します)

天に旅立った祖父は天から私たちを見守ってくれていて、そして、2012年1月11日に、「ほら、この日なら大丈夫だ」と、私を導いてくれたんだと思います。
あれから20年近く経ちましたけど、今も変わらず「愛されている」と思ったら、涙があふれて止まらなくなりました。
そして、「自分などどうでもいい」と思っていた私に、自分を大切にすることで周りの人をもっと大切に出来るということを教えてくれて、完璧主義者の私に「大丈夫、なんとかなる」と教えてくれた祖父は、間違っていないんだなぁ……、と。

1月11日は、祖父のお命日で、私の「もうひとつの誕生日」です。
……とても、しあわせです。